2017年2月17日金曜日

『「いき」の構造』とは何か?

江戸の美意識である「粋(いき)」。その粋についての名著、『「いき」の構造』を前回の記事をきっかけに約10年ぶり位に読み返してみました。

大まかにはつかんでいたつもりだった「いき」について、改めてじっくり色々と考えました。
そしたら、現代にも通じるあれやこれやが浮かんだので、ここに書いてみようと思います。

未定ですが、3~4回位のシリーズで書くつもりです。
今回は、まずはベースとなる「粋(いき)」という概念についてです。

そもそも『「いき」の構造』とは?

当時世界有数の大都市だった江戸における、「いき」という美意識について西洋哲学の手法を通して説明した古典的な名著。1930(昭和5)年に、哲学者の九鬼周造によって書かれました。



『「いき」の構造』の内容は大きく4つに分かれており、内包的構造、外延的構造、自然的表現、芸術的表現、から「いき」について読み解きます。戦前に書かれたものとは思えないほどとても論理的に書かれているので、いま読み返してもその主張するところは明瞭です。

「いき」っていったいどんなものなの?


九鬼はその構造を、以下の3つから読み解きます。
「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。

九鬼周造『「いき」の構造』より
それぞれについて、説明します。

一つ目の「媚態」について、それを簡単に言うと異性に対してアピールする事をほのめかす態度の事です。「いき」の基本は、この媚態をベースにしています。
その媚態について九鬼は、一元的にある自己が、自己と異性との間に可能的関係性を思わせるという二元的態度を取る、という事だといいます。

永井荷風が『歓楽』のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情け無いものはない」と云っているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によって齎(もた)らされた「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。それ故に、二元的関係を持続せしむること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって「歓楽」の要諦(ようてい)である。

九鬼周造『「いき」の構造』より
二つ目の「意気地」というのは、理想主義のことです。そのうちには武士道の理想が生きています。「意気地」を持った遊女について、九鬼は以下のように言います。
「武士食わねど高楊枝」の心が、やがて江戸者の「宵越しの銭を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴ころ」※1「不見転(みずてん)」※2を卑しむ凛呼(りんこ)たる意気になったのである。

九鬼周造『「いき」の構造』より
※筆者注:1非常に安い対価で身を売った私娼のこと ※筆者注:2芸妓が誰彼とも無く売春すること

三つ目の「諦め」は、人生経験を経る事によって得られる世知辛いくてつれない浮世の洗練を経て得られる、執着から抜けられた境地です。その境地については、仏教の影響があると九鬼はいいます。
そうしてまた、流転(るてん)、無常を差別相の形式と見、空無、涅槃を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁に向かって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない。

九鬼周造『「いき」の構造』より
このように、「媚態」と「意気地」と「諦め」の三つによって、「いき」は出来ています。

「意気地」と「諦め」は、一見矛盾しているようです。
ですが、「いき」のベースにある「媚態」は、異性との関係の中であくまで可能性を感じさせるに留まります。それは、ある理想に対してそれを諦めた態度ともいえます。このように、「いき」の中には「諦め」と「意気地」が「媚態」を通して両立しているのです。
そんな「いき」の中の「媚態」について九鬼は、以下のように書きます。
「いき」は媚態の「粋(すい)」である。「いき」は安価なる現実の提を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。一言にして云えば、媚態のための媚態である。恋の真剣と妄執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在に悖(もと)る。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。

九鬼周造『「いき」の構造』より
そして「いき」を以下の様に定義します。
「いき」を定義して、「垢抜けして(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」と云うことが出来ないだろうか。

九鬼周造『「いき」の構造』より

「いき」の具体例


「いき」の定義を踏まえて、その具体例から筆者が面白いと思ったものに絞って挙げてみます。

相手に媚びているけど心の底では媚ていない、媚態の二元的態度がベースとなっています。

いきな姿勢

九鬼は、いきの身体的な発露において、最も顕著なものを視覚的なものだと言っています。
その中で、いきな姿勢について、以下のように記述しています。
まず、全身に関しては、姿勢を軽く崩すことが「いき」の表現である。鳥居清長の絵には、男姿、女姿、立姿、居姿、後姿、前向、横向などあらゆる意味において、またあらゆるニュアンスにおいて、この表情が驚くべき感受性をもって捉えてある。

九鬼周造『「いき」の構造』より
~~腰部を左右に振って現実の露骨のうちに演ずる西洋流の媚態は、「いき」とは極めて縁遠い。「いき」は異性への方向をほのかに暗示するものである。

九鬼周造『「いき」の構造』より
異性に対してアピールする態度を持ちながらも、それをあくまで姿勢を崩すところにとどめる、その二元的な態度こそが「いき」だということです。

いきな柄

では、そのいきが芸術的な表現として発露した場合はどうなるでしょうか?
柄について記述した例を引用してみます。
さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性をよく表しているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞が「いき」と看做(みな)されるのは決して偶然ではない。

九鬼周造『「いき」の構造』より
縦縞は文化文政の「いき」な趣味を表している。しからば何故、横縞より縦縞の方が「いき」であるのか。その理由の一つとしては、横縞より縦縞の方が平行線を容易に知覚させるということがあるからであろう。

九鬼周造『「いき」の構造』より
いきな柄というのものを考えた場合も、二元性という事がキーワードとなります。二元性がはっきり表れる縦縞こそが、「いき」な柄なのです。

その他にもこの本では、粋な声、粋な色、粋な建築など、歴史的背景や具体例を交えて紹介しています。「この具体例無理があるんじゃ・・・」という例もあったりしますが、それを乗り越えようとするロジックの跳躍ぶりもまた味わい深いです。

「いき」の構造を知ると楽しい事


『「いき」の構造』を読むなどして構造を理解すると、世の中の色んな文化が「いき」かどうか?という観点で見られるようになってきます。私も、10年前にこの本を読んでから、映画、音楽、お笑いなど、色んなものについて、「いき」という観点で考えるようになりました。そして気づいたら、自分が好きなものは「いき」なものがとても多くなってました。

前回の記事なんて、まさにそうですよね。

そしてまた、この「いき」という観点は江戸から続く東京という都市文化をからめて考えても、結構面白かったりします。
次回以降は、その辺りについて、書いてみようかと思ってます。遅筆な私が、本当に書き終えられるのか(笑)?お楽しみにー!

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